徳川義直(とくがわよしなお)
尾張藩初代藩主[日本]
(慶安3年5月7日没)
1650年 6月5日 死去享年51歳

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、尾張国名古屋藩の初代藩主。
御三家のひとつ、尾張徳川家の祖。
諱は、はじめ義知・義利と名乗った後[1]、元和7年(1621年)に義直に改名している。
字は子敬[1]。
極位極官は従二位・権大納言。
柳生利厳より剣術を学び、新陰流第四世を継承した。
生涯=
出生=
慶長5年(1600年)11月28日、徳川家康の九男[2]として大坂[注 1]で産まれる[1]。
母は志水宗清の娘・於亀(相応院)。
童名は五郎太丸[2]。
甲府藩=
慶長8年(1603年)1月28日、4歳のとき、甲斐国において25万石(24万石とも)を拝領する[2][3][1](甲府藩)。
甲府城城代・平岩親吉は、このとき傅役を命じられた[3][1]。
五郎太丸自身は甲斐に入国せず、家康や生母・於亀とともに駿府城に居住した[3]。
親吉は、近臣の佐枝種長らを五郎太丸に近侍させている[3]。
実際の領国経営は、親吉と甲斐国奉行・大久保長安によって行われた[4]。
慶長9年(1604年)1月、正五位下に叙せられる[1]。
同11年(1606年)8月11日、7歳で元服し、従四位下右兵衛督に叙任され[1]、徳川右兵衛督義利と称する[2][5][注 2]。
尾張徳川家の創始=
慶長12年(1607年)閏4月26日、兄・松平忠吉の遺領を継いで、甲斐国から尾張国清洲城47万2344石に転封する[5][2][1](清洲藩)。
このとき、平岩親吉も尾張国犬山城城主12万3000石となり、後見役を続けることになった[5]。
慶長15年(1610年)2月[6]、家康は、甲斐・信濃国および東海 ……
徳川義直が亡くなってから、375年と22日が経過しました。(136991日)