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石川光明(いしかわこうめい)

彫刻家[日本]

1913年 7月30日 死去享年62歳

石川光明 - ウィキペディアより引用

石川 光明(いしかわ こうめい / みつあき、1852年10月1日 - 1913年7月29日)は江戸浅草出身の彫刻家。
浮き彫りを多用する技巧的作風などで知られ、高村光雲と並び明治の彫刻界を牽引した。
経歴= 源義経と家臣を描いた象牙彫刻(1880年頃、明治時代、ウォルターズ美術館蔵) 家は代々武州深谷中瀬村(埼玉県深谷市中瀬)で宮彫大工をしていたが、曽祖父の代に江戸へ出ると幕府の御用工匠を務めた。
祖父・藤吉は浅草寺雷門を手掛けその名を知られたという。
光明は幼名を藤太郎と言い、数え3歳で父を、9歳で祖父を亡くすと、駒形に住む叔父の家で家業の宮彫を習った。
続いて1862年(文久2年)には狩野寿信に入門し絵画を、1886年(慶応2年)からは根付師の菊川正光弟子入りし牙彫を学んだ。
その仕事は非常に早く、佳作とされる柴田是眞座像さえほぼ一日で彫り上げたとされる。
1872年(明治5年)に21歳で独立し北松山町に居を構える。
1877年(明治10年)8月、26歳の時に名を光明と改め、壽山と號し、住まいを喬松閣と称した。
1878年(明治11年)には旭玉山と共に後の東京彫工会となる彫刻の研究会を始める。
1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会出品の「牙彫魚籃観音像」と「嵌入の衝立」はともに妙技二等賞受賞。
1882年(明治15年)に同い年の高村光雲と出会い、互いに良き理解者として親交を深めた。
彼らは共に、1890年(明治23年)帝室技芸員(10月2日)、東京美術学校教授、文部 ……

石川光明が亡くなってから、111年と270日が経過しました。(40813日)

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