芸能人・経営者のおくやみ情報

野村望東尼(のむらもとに)

歌人[日本]

(慶応3年11月6日没)

1867年 12月1日 死去享年62歳

野村望東尼 - ウィキペディアより引用

野村 望東尼(のむら もとに、ぼうとうに)、文化3年9月6日(1806年10月17日) - 慶応3年11月6日(1867年12月1日))は、幕末の女流歌人・勤王家。
贈正五位。
生涯[編集] 文化3年(1806年)9月6日、筑前国御厩後(現福岡県福岡市中央区赤坂)に生まれる。
福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の三女で、幼名は"モト"。
幼少時より二川相近に和歌や書道を学んだとされる。
文政元年(1818年)、13歳の時に林五左衛門家に行儀見習いとして仕え、学門や裁縫手芸など多芸な趣味を覚える。
文政5年(1822年)、17歳の頃に20歳年上の福岡藩士郡甚右衛門に嫁ぐものの半年ほどで離縁、生家に戻って和歌・書道などに加えて尊皇思想を学んだ。
文政12年(1829年)、24歳で二川塾同門の福岡藩士・野村新三郎貞貫と再婚。
野村も再婚であるが、その連れ子との関係は良好だった。
一方で、4人授かった子どもは早世している。
二川相近が病で家塾を閉めると、天保3年(1832年)からは夫と共に大隈言道の門下に入る。
弘化2年(1845年)、連れ子である次男に家督を継がせ夫が隠居すると、福岡南側の山村 (現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘(平尾山荘)に40歳で隠棲した。
安政6年(1859年)、54歳の時に夫が亡くなり、剃髪して受戒。
文久元年(1861年)11月、望東尼は福岡を発ち4年ほど前から大坂に滞在していた大隈言道の元を訪ねた。
その後、京都へ赴き、翌2年5月まで滞在したが、この間に島津久光 ……

推定関連画像

野村望東尼が亡くなってから、156年と238日が経過しました。(57217日)

「野村望東尼」と関連する故人