芸能人・経営者のおくやみ情報

岡田半江(おかたはんこう)

画家[日本]

(弘化3年2月8日没)

1846年 3月5日 死去享年64歳

岡田半江 - ウィキペディアより引用

岡田 半江(おかた はんこう、天明2年(1782年) - 弘化3年2月8日(1846年3月5日))は、江戸時代後期の文人画家。
岡田米山人の子。
大坂の出身。
幼名を常吉、諱は粛、字を士羽。
半江は画号。
俗称を卯左衛門(宇左衛門)、のちに吉継。
略伝= 江村烟雨図 絹本淡彩 京都国立博物館 天保15年(1844) 岸和田城真景図 紙本墨画墨彩 天保15年(1844) 「紙本墨画米法山水図 」 天明2年(1782年)、米屋を営む自宅、大坂西天満宮寒山寺裏長池(大阪市北区曽根崎一丁目曽根崎天神付近)で生まれた。
半江は父の岡田米山人が39歳で恵まれた初子だったので溺愛された。
幼い時から父に習って画作を続け、居宅に出入する多くの文人墨客に感化され、自然と書画に興味を持った。
12歳頃の作品に既に小米を用いているが、この画号は米山人が米芾・米友仁父子に倣ったもので「しょうべん」の音に近いことから半江は好まなかったという。
28歳のとき父に代わり伊勢国藤堂藩の下役となり、大坂蔵屋敷の留守居の七里鎌倉兵衛に仕えた。
この頃吉継を名乗った。
翌年、安積家の四君子図襖絵を米山人はじめ戸田黄山・森川竹窓らと合作している。
文政年間に相次いで両親を失い、家業の米屋を継いで米屋彦兵衛を襲名。
しかし、父と同じく藤堂藩には下役として仕え続け文人画家としても活動した。
頼山陽をはじめ多くの文人・学者らと交遊。
蘭医の小石元瑞や儒学者の篠崎小竹とは竹馬の友であり、 ……

岡田半江が亡くなってから、178年と260日が経過しました。(65275日)

推定関連画像