池上秀畝(いけがみしゅうほ)
日本画家[日本]
1944年 5月26日 死去狭心症享年70歳
池上 秀畝(いけがみ しゅうほ、1874年(明治7年)10月11日 - 1944年(昭和19年)5月26日)は、明治時代から昭和にかけての日本画家。
特に山水・花鳥画を得意とした。
略歴=
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生れる。
本名は國三郎。
祖父池上休柳は、家業は番頭に任せて高遠藩・御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっている。
父池上秀華も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったという。
今でも高遠から上伊那各地の旧家には、彼らの作品が所蔵されている。
のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っている。
明治21年(1888年)頃には、自ら「國山」の号を用い、自作に「圀山」印を押すようになる。
明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。
瀧和亭、川辺御楯を訪ねるが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった荒木寛畝の最初の門人・内弟子となり4年間を過ごし文人画を学ぶ。
一時は洋画も研究するが、これは寛畝がやめさせている。
明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。
同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、太平洋戦争で自然解散する ……
池上秀畝が亡くなってから、80年と179日が経過しました。(29399日)