川辺御楯(かわべみたて)
日本画家[日本]
1905年 7月24日 死去享年68歳
川辺 御楯(かわべ みたて、天保9年(1838年)10月 - 明治38年(1905年)7月24日 )は、日本の幕末から明治時代の日本画家。
守住貫魚、山名貫義、川崎千虎、田中有美らと共に、幕末明治期を代表する大和絵師の一人である。
略伝=
姓名について=
通称は源太郎。
号は最初は琴守、後に鷺外、更に花陵と改め、別号に墨流亭、都多之舎(蔦舎)、後素堂など。
御楯ははじめ号だったが、後に名として使用した。
姓は初期作には「川邊」と款記し、御楯存命中から昭和初期までの文献類でも同様だが、明治20年以降は作品に「川邉」と記し遺族も同じ名乗りなことから、この頃改姓したが文献類では最初の姓がそのまま使われ続けたと考えられる。
本項目では常用漢字の「川辺」で立項している。
姓の読みは「かわのべ」としている文献もあるが、御楯の子孫の指摘から「かわべ」が正しい。
生い立ち=
筑後国(現福岡県)山門郡柳川上町(現柳川市)柳川藩に生まれる。
父の身分や生い立ちには複数の説が存在するが、総合すると古賀姓も名乗る川辺紋右衛門正胤(民)の長男として生まれる。
源氏の末裔とされ、柳河藩の史料にも名が見出だせないほど下級役人の身分だったが、ある時期士分格に上がる。
6歳から法眼狩野映信(久留米藩御用絵師の三谷家第5代)に学んだという父に狩野派を学ぶ。
次いで嘉永2(1849年)の12,3歳の頃、狩野永悳の門人で久留米藩御用絵師三谷友信の三男・三谷三雄に入 ……
川辺御楯が亡くなってから、119年と120日が経過しました。(43585日)