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守住貫魚(もりずみつらな)

日本画家[日本]

1892年 2月26日 死去

守住 貫魚(もりずみ つらな、文化6年7月11日〈1809年8月21日〉 - 明治25年〈1892年〉2月26日)は、幕末から明治初期の日本画家。
姓は清原のち守住、名は徳次郎、字は士済、幼名伸美(のぶよし)、初号輝美(てるよし)、ついで定輝、そして貫魚と改める。
号は是姓斎、回春斎、寄生軒など。
子に守住勇魚、守住周魚がいる。
生涯[編集] 阿波国・徳島城下の富田掃除町(現在の徳島県徳島市明神町)で、徳島藩の鉄砲方・庄野(または新居見)幸次郎延知の子として生まれる。
文政7年(1824年)16歳で江戸に出て、住吉広行の弟子で藩の絵師・渡辺広輝に入門する。
その頃、広輝は「光格上皇修学院に幸する儀仗図」の制作にとりかかっていたが、入門した貫魚に助手として手伝いを命じた際、貫魚の技が優れているのに驚き、文政12年(1829年)1月、貫魚は広輝から「輝」の一字を与えられ、輝美と号した。
天保4年(1833年)幕府御用絵師板谷広当の「日光縁起絵巻」制作を手伝った際、板谷家の本家にあたる住吉広定(のち広貫に改名)にその実力を認められ、翌年その門に入る。
さらに天保6年(1835年)、一橋公の命を受けてその寝殿の障壁画を描いた。
これが一橋徳川家のお気に入りとなり、将軍徳川家斉の目にもとまり、幕府の絵師に取り立てるべき内命があった。
この年の12月、貫魚は広定より「定」の字を授かり、定輝と号することになった。
阿波藩主蜂須賀斉昌は、一橋公の要望があっ ……

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守住貫魚が亡くなってから、132年と151日が経過しました。(48364日)