田能村直入(たのむらちょくにゅう)
画家[日本]
1907年 1月21日 死去享年95歳
田能村 直入(たのむら ちょくにゅう、文化11年2月10日(1814年3月31日) - 明治40年(1907年)1月21日)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本画家。
日本最後期の文人画家として知られる。
田能村竹田の養継子。
幼名は、はじめ松太、のち傳太。
諱は、はじめ蓼、のち痴。
字は、はじめ虚紅、のち顧絶。
号は、はじめ小虎、のち直入。
通称は小虎とした。
別号に竹翁、忘斎、煌斎、芋仙、布袋庵、無声詩客などがある。
豊後直入郡竹田町(現在の大分県竹田市)生まれ。
略伝=
花鳥図 1847年 紙本着色 滋賀県立近代美術館
岡藩士三宮伝右衛門の三男として生まれる。
伯父渡辺蓬島が田能村竹田の幼児期の師であったことから紹介され、文政5年9歳のときに竹田の画塾に入門。
才能を見いだされ養嗣子となる。
兄弟子には高橋草坪、帆足杏雨がいた。
画のほか儒学を角田九華、漢詩を広瀬旭荘に学び、表千家茶道、香道、東軍流の剣術も身につけた。
天保5年(1834年)、竹田に伴って大阪入りし、大塩平八郎の洗心堂で陽明学を学び、佐武理流の槍術免許を得る。
藤沢東畡、篠崎小竹、後藤松陰、広瀬旭荘、岡田半江などと交わった。
天保6年(1835年)、師竹田が没した後しばらくは京阪を遊歴して過ごしていたが、27歳で堺に落ち着くと詩社咬菜吟社を設立。
門人が300人以上集まったという。
35歳のときに黄檗僧天沖真一に参禅し印可と居士号を授かる。
大坂天王寺修復の ……
田能村直入が亡くなってから、117年と305日が経過しました。(43039日)