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篠崎小竹(しのざきしょうちく)

儒学者書家[日本]

(嘉永4年5月8日歿)

1851年 6月7日 死去享年71歳

篠崎 小竹(しのざき しょうちく、天明元年4月14日〈1781年5月7日〉 - 嘉永4年5月8日〈1851年6月7日〉)は、江戸時代後期の日本の儒学者・書家。
本姓は加藤氏。
幼名は金吾、名は弼(たすく)、字は承弼、小竹は号で別号に畏堂・南豊・聶江・退庵・些翁などがある。
通称は長左衛門。
生涯[編集] 天明元年(1781年) 、豊後国の医師・加藤周貞の次男として大坂に生まれる。
9歳で篠崎三島の私塾梅花社に入門し、古文辞学を受ける。
三島に後継ぎがなく13歳の時に望まれて養子となる。
しかし、江戸幕府による寛政の改革が進む中、頼山陽に感化されると養家を抜け出し、江戸に遊学。
尾藤二洲に学び古賀精里の門をくぐって朱子学者に転向する。
その後、養父・三島に詫びて和解がなり、梅花社を継いでいる。
三島にも勝って塾は栄え、多くの門弟を育てた。
詩・書に優れ、書籍を刊行しようとする者のほとんどが小竹に序・題・跋などの文章を求めるほど人気があった。
篆刻も得意とし稲毛屋山の『江霞印影』にその印が掲載されている。
温厚で社交好きな性格だったこともあり、関西学芸界の名士となった。
頼山陽とは、養父・三島が菅茶山と悶着のあった春水の長子・山陽を預かることとなり、小竹はすぐさま山陽の才能を見抜き、茶山との間柄を取り持ち常に山陽を擁護した。
その友情は山陽の死後も続き、遺児の面倒までみている。
また、大塩平八郎とも養父・三島に初読 ……

関連作品

篠崎小竹が亡くなってから、173年と50日が経過しました。(63238日)