尾藤二洲(びとうにしゅう)
儒学者[日本]
(名・孝肇、文化10年12月4日歿)
1814年 1月24日 死去享年70歳
尾藤 二洲(びとう じしゅう/にしゅう、延享2年10月8日〈1745年11月1日〉 - 文化10年12月4日〈1814年1月24日〉)は、江戸時代後期の儒学者。
名は孝肇、字は志尹、通称は良佐、別号は約山。
柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。
妻は儒学者飯岡義斎の娘の梅月(直子)。
妻の姉が頼山陽の母である頼梅颸であるため、頼山陽は甥にあたる。
人物=
伊予国川之江(現在の愛媛県四国中央市)の船頭の子として生まれたが足を病んで家業を継ぐことができなかった。
幼時に高津東白より句読を授かった。
その後、儒医宇田川楊軒に学び、青年期に讃岐国和田浜(現在の香川県観音寺市豊浜町)の儒医の藤村九皐・合田求吾に学んだ。
24歳より大阪に出て片山北海の門に入り、頼春水・頼春風・頼杏坪兄弟、中井竹山・中井履軒兄弟、古賀精里等と共に復古学を学んだ。
1791年に昌平黌教官となり、寛政異学の禁の後の教学を指導した。
陶淵明を好み、晩年には白居易に親しんだ。
その性格は「恬淡簡易」と評され、甥の頼山陽と歴史への関心を分け持ち、夜の更けるのも忘れ「喜んで本邦群雄の事跡を談じ」たという。
三博士の中ではもっとも詩人の素質に富み、こだわりなく詩を作る。
詩は「唐を以て法と為す」べきであるが、陳腐にならないように新しい感覚のある宋詩をも読むべきである、ただし「宋人は雅俗を択ば」ないので模倣しすぎると詩の形を為さなくなる、と考えて ……
尾藤二洲が亡くなってから、210年と313日が経過しました。(77016日)