柴野栗山(しばのりつざん)
儒学者[日本]
1807年 12月29日 死去享年72歳
柴野 栗山(しばの りつざん、元文元年(1736年) - 文化4年12月1日(1807年12月29日))は、江戸時代の儒学者・文人である。
名は邦彦であり、字は彦輔である。
讃岐国(現:香川県)で生まれた。
寛政の三博士の一人として知られる。
生涯=
元文元年(1736年)に讃岐国三木郡牟礼村(現:香川県高松市牟礼町牟礼)で誕生する。
父親の名は、柴野軌逵であり、母親の名は柴野於澤である。
寛延元年(1748年)に高松藩の儒学者後藤芝山の元へ通い、儒学を習った。
宝暦3年(1753年)に中村文輔と共に、江戸に赴き湯島聖堂で学問を学んだ。
湯島聖堂の学習を終えた柴野は、明和2年(1765年)に高橋図南から国学を中心に学問を学び、明和4年(1767年)に徳島藩に儒学者として仕えるようになった。
明和5年(1768年)には徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に再度赴く事となる。
江戸に着いた後、安永5年(1776年)に徳島藩当主の侍読に就任する。
天明7年(1787年)には、江戸幕府老中松平定信から呼び出され、幕府に仕えるように勧められた。
以後幕府に仕え、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり、寛政2年(1790年)に湯島聖堂の最高責任者となった。
文化元年(1804年)に白内障から回復したことに対して、蘇軾が王彦若に贈った詩を書いて三井惟親(三井光慶)に贈った。
文化4年(1807年)には、「玄武洞」を命名している。
同年、12月1日に死去した。
墓所は文京区 ……
柴野栗山が亡くなってから、216年と291日が経過しました。(79185日)