蜂須賀重喜(はちすかしげよし)
阿波徳島藩主[日本]
(享和元年10月20日没)
1801年 11月25日 死去享年64歳
蜂須賀 重喜(はちすか しげよし)は、阿波国徳島藩の第10代藩主。
号は公熙、南山、清風齋。
経歴=
元文3年(1738年)、出羽秋田新田藩の第2代藩主・佐竹義道の四男に生まれる。
母は内藤政森の娘。
幼名は岩五郎、初名は佐竹義居(さたけ よしすえ)。
宝暦4年(1754年)8月25日、阿波徳島藩第9代藩主・蜂須賀至央の末期養子として第10代藩主に就任する(至央は第8代藩主・蜂須賀宗鎮の実弟で、兄弟ともに讃岐高松藩松平家の一門松平大膳家からの養子である)。
養子入りに際して諱を政胤(まさたね、「政」は藩祖・蜂須賀家政の1字を取ったもの)と改名する。
この末期養子は、相次いで後継ぎが早世したために、家老の賀島出雲の提案により決定した。
同年9月15日、第9代将軍・徳川家重に御目見する。
同年11月25日に元服して家重より偏諱を受けて重喜と改名、従四位下阿波守に叙任する。
後に侍従に任官する。
宝暦5年(1755年)4月15日、初めて領国に入部する許可を得る。
留野留川の規制という法令を出し、家中の統制を図る。
宝暦・明和期の藩政改革の萌芽といえる(中期藩政改革)。
重喜が中心となって行なった改革の内容は、財政再建としての倹約令の施行と、藩体制の変革としての役席役高の制、若年寄の創設などであった。
役席役高とは第8代将軍徳川吉宗(家重の父)の享保の改革で行なわれた足高の制を模範としているが、身分序列の崩壊を招いたことで、その性 ……
蜂須賀重喜が亡くなってから、222年と360日が経過しました。(81446日)