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渡辺小崋(わたなべしょうか)

三河田原藩士、家老、画家[日本]

1887年 12月29日 死去腸チフス享年53歳

渡辺小崋 - ウィキペディアより引用

渡辺 小崋(わたなべ しょうか、天保6年1月7日(1835年2月4日) - 明治20年(1887年)12月29日)は、幕末・明治期の三河国田原藩家老で、日本画家。
渡辺崋山の次男。
諱は諧(かのう)で、通称は舜治。
小崋(後に小華)は雅号。
略歴= 江戸麹町の田原藩邸で生まれる。
父・崋山が蛮社の獄で国許・田原に蟄居した際には、小崋を含む家族も共に移り住んだ。
7歳のときに崋山は自害した。
藩校成章館で学んだ後に、弘化4年(1847年)13歳の時、彼の将来を慮った父の門人福田半香の勧めで江戸に出てる。
同じく崋山門下の椿椿山の弟子となり、その画塾琢華堂で絵画を学んだ。
その頃の琢華堂では毎月門下生に無落款で提出させ、これを批評し最優秀作には賞を与えていたのだが、小崋の作品は優秀作になることはなく、毎回小崋より年は上だが入門は後の野口幽谷が賞を受けていた。
小崋は自分の非才を悩み、内密に幽谷の粉本を貰い、これを模して提出すると門下中最低点を付けられてしまう。
この後、椿山は小華を招き「汝は塾内では卓抜な腕前であるが、まだまだ親の崋山には及びもつかない。
亡き崋山の画業を継承し、その名声を辱める不肖の子とならないように」と戒めたという逸話が残る。
嘉永4年(1851年)江戸田原藩邸で世子三宅康寧のお伽役として絵画の相手を命じられる。
安政元年(1854年)椿山が亡くなると画家として独立し、安政3年(1856年)、田原藩側用人であった兄 ……

渡辺小崋が亡くなってから、136年と312日が経過しました。(49986日)

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