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平野国臣(ひらのくにおみ)

福岡藩士[日本]

(元治元年7月20日没)

1864年 8月21日 死去斬首享年37歳

平野国臣 - ウィキペディアより引用

平野 国臣(ひらの くにおみ)は、日本の武士・福岡藩士、志士。
大蔵氏の流れをくむ。
通称は次郎、巳之吉。
諱は種言、種徳。
変名に都甲楯彦、宮崎司、草香江水際、佐々木将監など。
贈正四位。
概要[編集] 攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。
文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかるが寺田屋騒動で失敗し投獄される。
出獄後の文久3年(1863年)に三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策するが八月十八日の政変で挫折。
大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵するがまたも失敗に終わり捕えられた。
身柄は京都所司代が管理する六角獄舎に預けられていたが、禁門の変の際に生じた火災を口実に殺害された。
生涯[編集] 福岡藩士[編集] 文政11年(1828年)3月29日、福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の二男に生まれる。
父・吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分に取り立てられている。
天保12年(1841年)、国臣は足軽鉄砲頭・小金丸彦六の養子になった。
弘化2年(1845年)に江戸勤番を命じられ、江戸に上っている。
嘉永元年(1848年)に福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚し、一男(六平太)をもうける。
嘉永4年には宗像大社沖津宮普請のため宗像郡大島(現宗像市)に赴任した。
福岡では漢学を亀井暘春、国学 ……

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平野国臣が亡くなってから、159年と339日が経過しました。(58414日)