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有馬新七(ありましんしち)

薩摩藩士[日本]

(「寺田屋事件」で討死、文久2年4月23日没)

1862年 5月21日 死去討死享年38歳

有馬新七 - ウィキペディアより引用

有馬 新七(ありま しんしち)は、日本の武士(薩摩藩士)、学者。
諱は正義。
位階勲等は贈従四位。
生涯[編集] 真影流(直心影流)と崎門学派を学び文武両道の俊傑とうたわれた。
憂国の詩文は孝明天皇の乙夜の覧に供されたとされる。
薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛の子として薩摩国日置郡伊集院郷徳重村小城(現在の日置市伊集院町徳重)で生まれるが、父が城下士の有馬家の養子となったため、新七もそのまま城下士となり、鹿児島城下の加治屋町に移住した。
同じく薩摩藩伊集院郷の郷士坂木六郎は叔父にあたり、剣の達人として有名であった六郎から幼少期から神影流を伝授された。
天保9年(1838年)、14歳の元服の頃より『靖献遺言』を研究し、崎門学派の学を修める。
天保14年(1843年)より江戸で学び、山崎闇斎派の儒学者山口菅山の門下となる。
安政4年(1857年)には薩摩藩邸学問所教授に就任。
文久元年(1861年)造士館訓導師に昇進。
尊皇攘夷[編集] 尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を引き、結果的に水戸藩を裏切る形となった。
万延元年(1860年)に町田久成の要請を受け、伊集院郷石谷村(後の鹿児島市石谷町)を統治することとなった。
新七は石谷村を治める間に、村における刑法を定め、悪事を働くものに罰として石坂(一部現存、鹿児島市の指定文化財) ……

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有馬新七が亡くなってから、162年と66日が経過しました。(59237日)