中山忠光(なかやまただみつ)
公家[日本]
(元治元年11月15日没)
1864年 12月13日 死去暗殺享年20歳
中山 忠光(なかやま ただみつ)は、江戸時代後期(幕末期)の公家。
極官は従四位下侍従。
過激な攘夷論者であり、天誅組の変を起こしたが敗れ、後に暗殺された。
生涯=
中山忠光『近世文武英雄伝』(大蘇芳年〈月岡芳年〉画)
参議中山忠能の七男として生まれる。
母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。
孝明天皇の典侍中山慶子は同母姉であり、その子の祐宮睦仁親王(明治天皇)にとって忠光は叔父にあたる。
長兄中山忠愛の養子となっている。
睦仁親王は5歳まで中山家で育てられており、忠光は最も近しい公家の一人であった。
1858年(安政5年)に侍従に任官し、1860年(万延元年)には睦仁親王への伺候を命じられた。
中山忠光が亡くなってから、159年と342日が経過しました。(58417日)