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中原南天棒(なかはらなんてんぼう)

侶・臨済宗[日本]

1925年 2月12日 死去享年87歳

中原南天棒 - ウィキペディアより引用

中原 鄧州(なかはら とうしゅう、1839年5月15日〈天保10年4月3日〉 - 1925年〈大正14年〉2月12日)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶で、諱は全忠(ぜんちゅう)、別号として白崖窟(はっけいくつ)を持つが、広く南天棒(なんてんぼう)の異名で知られる。
竹篦(警策)として常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡っては修行者を容赦なく殴打した明治時代屈指の豪僧として知られる。
在家者への教導にも力を注ぎ、山岡鉄舟、乃木希典、児玉源太郎などが彼の影響を受けた。
生涯= 幼少期と印可まで= 天保10年4月3日、肥前国東松浦郡十人町(現在の佐賀県唐津市十人町)にて、唐津藩士塩田壽兵衛惟和と、同藩牧山氏の二女多喜子との子として生まれる。
幼名は慶助。
通称は孝次郎であった。
7歳の時に母・多喜子が他界。
その中陰に訪れた唐津藩主小笠原家の菩提寺、近松寺の陽溟和尚の勧めで近松寺に出入りするようになり仏道を志願。
11歳で平戸雄香寺の麗宗全澤(れいしゅう ぜんたく)の元で出家。
全忠の法名を得る。
鄧州は18歳の頃まで麗宗の元で修行を積み、各種仏典や四書五経、句双紙、四部録などを就学する。
その後、山城国綴喜郡八幡(京都府八幡市)の円福寺に入山、堂頭の石應宗眠(せきおう そうみん)、次いで蘇山玄喬(そざん げんきょう)の師事を積みながら諸国を行脚。
豊後国宇佐(大分県宇佐市)の永福寺では、天下随一の過酷な師家 ……

中原南天棒が亡くなってから、99年と282日が経過しました。(36442日)