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薄田泣菫(すすきだきゅうきん)

詩人[日本]

1945年 10月9日 死去尿毒症享年69歳

薄田泣菫 - ウィキペディアより引用

薄田 泣菫(すすきだ きゅうきん、1877年(明治10年)5月19日 - 1945年(昭和20年)10月9日)は、日本の詩人・随筆家。
本名、淳介(じゅんすけ)。
『暮笛集』『白羊宮』などで島崎藤村、土井晩翠の後を継ぐ浪漫派詩人として登場。
また、象徴派詩人として蒲原有明と併称された。
大正以後は詩作を離れ、『茶話』『艸木虫魚』などの随筆集を書いた。
生涯= 1877年5月13日、岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)に、父・篤太郎、母・里津の長男として生まれた。
父は村役場の書記で、俳諧を嗜んでいた。
玉島高等小学校を経て、岡山県尋常中学校(後に第一岡山中学校。
現在の県立岡山朝日高校)を中退。
1894年上京し、上野書籍館(帝国図書館の別称)に通いながら漢学塾の二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ。
1897年、帰郷すると、いくつか詩を作り『新著月刊』に泣菫の雅号を用いて投稿、後藤宙外、島村抱月らに絶賛され掲載された。
翌年第一詩集『暮笛集』を刊行、『小天地』を編集しながら『明星』などに詩を載せ、『ゆく春』『白羊宮』など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村、土井晩翠後の明治後期の詩壇を背負って立った。
1906年12月、京都で市川修(通称修子)と結婚、翌年長女が誕生。
この結婚をきっかけに詩作が減る。
明治の終わりごろから一時小説に興味を移したが、結局随筆に転じ、詩 ……

薄田泣菫が亡くなってから、79年と43日が経過しました。(28898日)

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