鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)
洋画家[日本]
1941年 4月3日 死去享年68歳
鹿子木 孟郎(かのこぎ たけしろう、1874年(明治7年)11月9日 - 1941年(昭和16年)4月3日)は、岡山県出身の洋画家。
肖像画を得意とした。
元関西美術院長、レジオン・ドヌール勲章受章。
略歴=
岡山県岡山市東田町に、旧岡山藩(備前池田藩)藩士の宇治長守の三男として生まれる。
号は不倒。
初め郷里で松原三五郎の天彩学舎で油絵を学ぶ。
1890年(明治23年)、東京に遊学したが脚気に罹り帰郷する。
岡山中学予備校図画教員となるが、1892年(明治25年)、再度上京し小山正太郎が主宰する画塾不同舎に入る。
1895年(明治28年)、中等教員図画免許状を受け、滋賀県・三重県(三重県尋常中学校、現・三重県立津高等学校)・埼玉県で美術教師として勤務する。
なお、三重県尋常中学校での鹿子木の前任は藤島武二、後任は赤松麟作だった。
1897年(明治30年)、岡山出身の妹尾春子と結婚。
1900年(明治33年)、渡欧。
11月中ボストン着。
同行した満谷国四郎、丸山晩霞、河合新蔵と、先発の吉田博、中川八郎で「日本人水彩画家6人展」をボストンアートクラブで開催し、成功を収める。
1901年(明治34年)4月にアメリカ発、ロンドン経由で6月にパリに到着。
パリのアカデミー・ジュリアンで、フランス最後の歴史画家と称された老巨匠ジャン=ポール・ローランスの薫陶を受ける。
1904年(明治37年)、帰国。
同年、明治美術会の後進である太平洋美術会 第3回展に出品。
京都 ……
鹿子木孟郎が亡くなってから、83年と232日が経過しました。(30548日)