斎藤与里(さいとうより)
洋画家、美術評論家[日本]
1959年 5月3日 死去享年75歳
斎藤 与里(さいとう より、1885年(明治18年)9月7日-1959年(昭和34年)5月3日)は、大正・昭和期の洋画家、美術評論家。
本名は齊藤與里治。
経歴=
埼玉県北埼玉郡下樋遣川村(現・加須市)生まれ。
1905年京都に出て聖護院洋画研究所に入り、浅井忠や鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。
翌年の1906年には鹿子木とともにフランスへ渡った。
1908年8月に帰国した後は「白樺」誌上で、ポスト印象派やフォーヴィスムの作品を紹介した。
1912年、岸田劉生らとフュウザン会を結成(翌年解散)。
1915年第9回文展に初出品した「朝」が初入選、1916年第10回文展に出品した「収穫」 が文展最初の特選、1927年第8回帝展でも「水郷の夏」が特選となる。
1924年に槐樹社(1924-1931年)を設立し、機関誌『美術新論』の主幹として美術評論も行った。
解散後、1932年に東光会(1932年-)を創設した。
この間、大阪美術学校(大阪芸術大学の前身・大阪美術学校とは別で、1944年廃校。
跡地は枚方市立御殿山生涯学習美術センター)の創立に協力し、1926年に教授となった。
1937年(昭和12年)、この年から始まった新文展の審査員に就任。
1959年(昭和34年)4月に加須市名誉市民第1号に推挙されたが、同年5月3日に死去。
記念施設=
生家跡(2015年8月)
生家跡は斉藤与里記念公園(建物はなく、門のみ)になっている。
参考文献=
『日本人名大辞典』講談社
中村屋サロン美術館『生誕130年記念 中村屋サロンの画家 斎藤与 ……
斎藤与里が亡くなってから、65年と159日が経過しました。(23900日)