芸能人・経営者のおくやみ情報

小杉放庵(こすぎほうあん)

画家[日本]

1964年 4月16日 死去肺炎享年84歳

小杉放庵 - ウィキペディアより引用

小杉 放庵(こすぎ ほうあん、1881年(明治14年)12月30日 - 1964年(昭和39年)4月16日)は、明治・大正・昭和時代の洋画家・日本画家・歌人・随筆家。
本名は国太郎、別号に未醒、放菴。
長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編纂している。
二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。
俳優の小杉義男は甥。
略伝= 栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。
父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていた。
1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となるが、五百城に無断で出奔、上京して白馬会洋画研究所に入る。
しかしこれに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。
再び五百城の元に戻る。
1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門し、滝野川村(当時)の田端で下宿生活を始めた。
1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。
なお、1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。
1904年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。
1904年11月に反戦詩集『陣中詩篇』を刊行した。
また、同19 ……

小杉放庵が亡くなってから、60年と219日が経過しました。(22134日)

推定関連画像