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山本鼎(やまもとかなえ)

画家画家[日本]

1946年 10月8日 死去腸捻転享年65歳

山本鼎 - ウィキペディアより引用

山本 鼎(やまもと かなえ、1882年〈明治15年〉10月14日 - 1946年〈昭和21年〉10月8日) は、日本の版画家・洋画家・教育者。
愛知県額田郡岡崎町(現・岡崎市)出身。
16歳からは長野県上田市に住み、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた。
長男は詩人の山本太郎。
画家で詩人の村山槐多は従弟。
来歴= おいたち= 1882年(明治15年)10月14日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)に父一郎、母たけの長男として生まれた。
間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京浅草区山谷町に移住した。
小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井暁雲(虎吉)の住込み徒弟となり、版画職人として自立する道を歩み始める。
鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。
美術学校時代= 1901年(明治34年)に木版工房での9年間の年季奉公を終えた鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1902年(明治35年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。
在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。
それは、絵師、彫師、摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。
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山本鼎が亡くなってから、78年と37日が経過しました。(28527日)

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