村山槐多(むらやまかいた)
洋画家[日本]
1919年 2月20日 死去スペイン風邪享年24歳
村山 槐多(むらやま かいた、1896年〈明治29年〉9月15日 - 1919年〈大正8年〉2月20日)は、明治・大正時代の日本の洋画家で、詩人、作家でもある。
神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市生まれ、京都市上京区育ち。
母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる。
みなぎる生命力を退廃的・破滅的雰囲気を纏わせながら絵画に表した。
ガランス(深い茜色、やや沈んだ赤色)を好んで使ったことでも知られる。
生涯=
槐多は、愛知県額田郡岡崎町にて小学校教諭・村山谷助とその妻・たまの長男として生まれた。
岡崎町はかつての岡崎城の城下町で、現在の岡崎市。
従来の出生地の定説は、父親が教員を務めていたという神奈川県橘樹郡神奈川町(現在の横浜市神奈川区)であったが、岡崎市美術博物館の学芸員が親族への聞き取りと岡崎市役所に残された槐多の出生届資料を確認したうえで、2011年(平成23年)12月に正しい情報を公表した。
岡崎町は母・たまの出身地で、谷助とたまが婚姻届を出したのは槐多が生まれる2週間前であった。
母・たまは結婚前に森鷗外家で女中奉公をしており、村山家では鴎外が「槐多」の名付け親になったと言い伝えられている[* 1]。
槐多は10代からボードレールやランボーの作品を読み耽り、詩作もよくした。
その早熟さ、デカダン(退廃)的な生活、貧しさや失恋による心の痛みなどにより困窮した。
さらに結核 ……
村山槐多が亡くなってから、105年と294日が経過しました。(38645日)