荻原碌山(おぎわらろくざん)
彫刻家[日本]
(本名・守衛)
1910年 4月22日 死去享年32歳
荻原 碌山(おぎわら ろくざん / おぎはら ろくざん、1879年(明治12年)12月1日 - 1910年(明治43年)4月22日)は、明治期の彫刻家。
本名は守衛(もりえ)、「碌山」は号である[註 1]。
長野県東穂高村(現:安曇野市)出身。
経歴=
少年時代=
守衛は幼い頃から病弱で、大好きな読書をしたり、絵を描いて過ごしていた。
17歳の時、通りがかりの女性に声をかけられる。
田舎では珍しい白いパラソルをさし、大きな黒い瞳をした美女の名は相馬黒光。
尊敬する郷里の先輩相馬愛蔵の新妻で、守衛の3歳年上であった。
東京の女学校で学んだ黒光は、文学や芸術を愛する才気あふれる女性。
碌山はそんな黒光から、あらゆる芸術についての知識を授けられ、未知なる世界の扉を開いていく。
やがて芸術への情熱に目覚めた碌山は洋画家になろうと決意する。
海外留学=
本格的な勉強をしようと、1901年 (明治34年) アメリカのニューヨークに渡り絵画を学ぶ。
アルバイトをしながら、アカデミーで西洋画の基礎を学び、来る日も来る日もデッサンを続けた。
人間を描くことに夢中になった彼は、目に見えない骨格や筋肉の動きまで徹底的に研究。
つぶさに肉体を写し取ろうとした。
しかし、守衛はまだ本当に描くべきものを見出せずにいた。
そんな修行の日々に1903年 (明治36年) アメリカからフランスのパリに訪れた守衛は衝撃的な作品に出会う。
1904年 (明治37年)に後に近代彫刻の父といわれ ……
荻原碌山が亡くなってから、114年と213日が経過しました。(41852日)