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塙忠宝(はなわただとみ)

国学者[日本]

(文久2年12月22日歿)

1863年 2月10日 死去暗殺享年56歳

塙忠宝 - ウィキペディアより引用

塙 忠宝(はなわ ただとみ、文化4年12月4日(1808年1月1日) - 文久2年12月22日(1863年2月10日))は、江戸時代末期(幕末期)の国学者。
塙保己一の四男。
母は岡田イヨ。
通称は次郎(じろう)。
なお、忠宝の諱は林述斎が命名した。
業績= 暗殺現場である塙忠宝邸跡前(東京都千代田区九段) 『史料』、『武家名目抄』、『続群書類従』などの編纂に携わった。
また、『南朝編年稿』『近世武家名目一覧』『集古文書』などを編著した。
文久2年(1862年)、江戸幕府老中安藤信正の命で、前田夏蔭と共に寛永以前の幕府による外国人待遇の式典について調査するも、孝明帝を廃位せしめるために「廃帝の典故」について調査しているとの誤った巷説が伝えられ、勤皇浪士たちを刺激。
12月21日、幕臣中坊陽之助邸(駿河台)で開かれた和歌の会から帰宅したところ、自宅兼和学講談所の前で知人の加藤甲次郎と共に襲撃され、翌日死去した。
暗殺= 忠宝を暗殺した襲撃者については、伊藤博文と山尾庸三であると言われる。
渋沢栄一が大正10年(1921年)、忠宝六十年祭に出席した際にそのことを明らかにしており、田中光顕が伊藤本人から聞いた暗殺時の話も記録されている。
初代伊藤痴遊がこの暗殺事件について伊藤博文本人に問いただしたところ、「我輩は、よく知らんよ」と博文は返したものの、痴遊は「然しその態度や口振りから考えて言外の意味は読むことが出来た」としている。
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塙忠宝が亡くなってから、161年と284日が経過しました。(59089日)