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山尾庸三(やまおようぞう)

長州藩士、工部卿、法制局初代長官、子爵[日本]

1917年 12月21日 死去享年81歳

山尾庸三 - ウィキペディアより引用

山尾 庸三(やまお ようぞう、天保8年10月8日(1837年11月5日) - 1917年(大正6年)12月22日)は、日本の政治家。
子爵。
長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。
周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。
木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。
生い立ち= 幕末期= 萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。
嘉永5年(1852年)江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。
文久元年(1861年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。
帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。
文久2年(1862年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
文久3年(1863年)3月、長州藩が購入した癸亥丸の測量方を務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行した。
この時の癸亥丸の船長が井上勝(当時は野村弥吉)である。
この時、京都にいた世子毛利元徳が帰藩のため癸亥丸に乗船予定であったが、操船に不安があったため、京邸の役人は庚申丸を選び、癸亥丸を随従させるという決定を下した。
同年4月、周布政之助は「野弥山庸両人は、儲公三田尻御着船之上ハ宿志を遂候様に、於私に精々心配可仕候間」と書いた手紙を来島又兵衛に送っている。
帰藩した山尾と野村はただちに洋行留学の願いを出 ……

山尾庸三が亡くなってから、106年と335日が経過しました。(39052日)