林述斎(はやしじゅっさい)
儒学者[日本]
(天保12年7月14日歿)
1841年 8月30日 死去享年74歳
林 述斎(はやし じゅっさい、明和5年6月23日(1768年8月5日) - 天保12年7月14日(1841年8月30日))は、江戸時代後期の儒学者。
林家8代で林家中興の祖。
父は美濃国岩村藩主・松平乗薀、祖父は享保の改革を推進した老中・松平乗邑。
諱は初め(松平)乗衡(のりひら)、後に(林)衡(たいら)。
字は熊蔵・叔紞・徳詮。
号は述斎・蕉軒・蕉隠など。
晩年は大内記と称す。
人物・略歴=
岩村藩松平家では兄二人が早生していたので、三男の述斎は家督を継ぐべき位置にあったが、病弱だったため、明和7年(1770年)12月、福知山藩朽木玄綱の九男が乗薀の養子として迎えられ、家督を継いで乗保を名乗った。
成長してからは身体壮健になった述斎であるが、病弱という理由で長らく部屋住みの身であった。
述斎は少年時に徂徠系の儒者である大塩鼇渚や服部仲山に儒学を学び、その後、林家の門人で朱子学者渋井太室に入門し、さらには折衷学系の儒者細井平洲にも儒を学んだ。
18歳の天明5年(1785年)頃には、大名や幕臣などが中心になって結んでいた風雅の会「風月社」にも参加し、漢詩人としても非凡な才が評判となっていた。
その評判を聞いた松平定信の周旋で、寛政5年(1793年)、林錦峯の死去で途絶えた林家を継いで大学頭となり、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。
近世日本文学研究者揖斐高は、定信は述斎が大学頭林家を継ぐにふさわしい学才だけでなく、寛政の改革の一 ……
林述斎が亡くなってから、183年と82日が経過しました。(66923日)