林復斎(はやしふくさい)
儒学者[日本]
(安政6年9月17日没)
1859年 10月12日 死去享年59歳
林 復斎(はやし ふくさい)は、江戸時代末期の儒学者、外交官。
幕府朱子学者林家当主。
復斎は号。
岩瀬忠震、堀利煕は甥にあたる。
生涯=
大学頭家を継ぐ=
寛政12年(1800年)に林述斎の六男として生まれる(ただし旧暦12月生のため、西暦換算では翌1801年となる)。
文化4年(1807年)、親族の第二林家・林琴山の養子となり、3年後に家督を継ぐ。
文政7年(1824年)紅葉山文庫の書物奉行として勤務。
『重訂御書籍来歴志』『重訂御書籍目録』などを編纂。
天保9年(1838年)には二ノ丸留守居に転じ、以後、先手鉄砲頭、西丸留守居などを歴任、能吏として知られた。
また併行して昌平黌の学問所御用も兼務、総教(塾頭)となった秀才でもあった。
嘉永6年(1853年)、本家大学頭家を継いでいた甥の壮軒(健)が死去。
急遽大学頭家を継ぐことになる。
小姓組番頭次席となり、大学頭と改名。
54歳にして林大学頭家11代当主となった。
折しもアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航し、世情が騒然していた。
復斎は幕府に日本側全権の応接掛(特命全権大使)に命ぜられて、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。
また各藩大名の歴史をまとめた『藩鑑』も編集。
両書を編纂した功績で同年12月に賞賜されている。
ペリー艦隊との交渉=
翌安 ……
林復斎が亡くなってから、165年と40日が経過しました。(60306日)