満谷国四郎(みつたにくにしろう)
洋画家[日本]
1936年 7月12日 死去享年63歳
![満谷国四郎 - ウィキペディアより引用](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/dc/Mitsutani_Kunishir%C5%8D.jpg/220px-Mitsutani_Kunishir%C5%8D.jpg)
満谷 国四郎(みつたに くにしろう、1874年(明治7年)10月11日 - 1936年(昭和11年)7月12日)は、日本の洋画家である。
十五老とも称した。
略歴[編集]
『戦の話』 1906年 倉敷市立美術館
『緋毛氈』 1932年 大原美術館
幼少期[編集]
1874年10月11日に満谷準一郎と世辞との間に三男として、岡山県賀陽郡門田村(もんでむら・現総社市門田)に生まれた。
現在は「満谷国四郎先生 生誕之地」と刻まれた石碑が建てられている。
叔父の堀和平は県下で洋画の草分けと言われた人で、幼い国四郎は堀家に行くたびに和平の画技を見て強い感銘を受けた。
さらに、浅尾小学校では代用教員をしていた吉富朝次郎に愛され、岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)に進むと松原三五郎に画才を認められた。
1891年(明治24年)、ついに中学を3年で退学。
徳永仁臣をたよって上京するとき、吉富朝次郎から「総社は東洋画の大家雪舟を出した地である。
君も大いに頑張って西洋画の第一人者となり給え」と励まされた。
青年期[編集]
東京で五姓田芳柳に師事し、次いで小山正太郎の画塾「不同舎」で苦学力行して、1898年(明治31年)油絵「林大尉の死」を発表した。
明治美術館創立十周年記念展の会場に明治天皇がたまたま見に来られ、その絵の前にしばらく立ち止まられて感激され、たいへんほめたたえられたといわれている。
その作品が宮内省の買上げという光栄に浴し、1899年(明治32年)には「妙義山」が ……
関連作品
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タイトル 満谷国四郎残照
種別 単行本著者 - 満谷昭夫
- 宮本高明
出版社 創元社ページ数 発売日 新品価格 ¥3,500中古商品 ¥3,500より
満谷国四郎が亡くなってから、88年と15日が経過しました。(32157日)