竹田黙雷(たけだもくらい)
僧侶・臨済宗[日本]
1930年 11月15日 死去享年77歳
竹田 黙雷(たけだ もくらい、1854年7月27日(嘉永7年7月3日) - 1930年(昭和5年)11月15日)は、明治から昭和の初頭を代表する臨済宗の禅僧。
俗姓は竹田、法諱は宗淵、道号は黙雷、室号は左辺亭。
壱岐国(長崎県壱岐島)に生まれる。
臨済宗建仁寺派管長(1892年 - 1930年)
生涯=
平戸藩藩士の竹田克治の四男として生まれる。
7歳で壱岐の太陽庵(現在は廃寺)の良堂和尚のもとに入り、のち同地の安国寺道樹和尚について得度する。
1873年(明治6年)、京都妙心僧堂の釈越渓老師に参じ、その後大徳僧堂の儀山善来、相国僧堂の荻野独園の各老師にも参じた後、1881年(明治14年)久留米梅林僧堂の三生軒東海猷禅(ゆうぜん)老師に参じ、嗣法する。
1889年(明治22年)4月17日、建仁寺山内の両足院住職となり、翌年に建仁寺護国院(現在の開山堂。
古くは興禅護国院といい、開山栄西禅師の墓所)で安居結成を始め、1892年(明治25年)5月、39歳の若さで第4代建仁寺派管長に就任。
1898年(明治31年)には山内の霊洞院に禅堂を落慶し、僧堂を開単する。
また荒廃した高台寺の復興を計った。
1913年(大正2年)に開山栄西禅師七百年遠諱を厳修する。
翌1914年(大正3年)には比叡山にて栄西禅師の遺跡を発見、同地に碑を建て開山祖師の遺徳を顕彰した。
(参考 栄西禅師八百年遠諱の栄西禅師遺跡参拝行事)
1928年(昭和3年)、僧堂師家を法嗣の竹田頴川に譲り退任する。
管長職は最後まで続け、1930 ……
竹田黙雷が亡くなってから、94年と6日が経過しました。(34340日)