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浦上玉堂(うらかみぎょくどう)

文人画家[日本]

(文政3年9月4日没)

1820年 10月10日 死去享年76歳

浦上玉堂 - ウィキペディアより引用

浦上 玉堂(うらかみ ぎょくどう、延享2年〈1745年〉 - 文政3年9月4日〈1820年10月10日〉)は、江戸時代の文人画家、備中岡山藩支藩の鴨方藩士(50歳の時に脱藩)。
諱は孝弼(たかすけ)、字は君輔(きんすけ)、通称は兵右衛門。
35歳の時、「玉堂清韻」の銘のある中国伝来の七絃琴を得て「玉堂琴士」と号した。
父は宗純。
経歴= 『東雲篩雪図』(国宝) 浦上玉堂廟所(本能寺) 延享2年(1745年)、岡山藩の支藩鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の藩邸に生まれる。
藩邸があった場所には現在、岡山県立美術館が建っている。
玉堂は播磨・備前の戦国大名であった浦上氏の末裔で、系図上では浦上一族の浦上備後守の曾孫とされるが、実際はさらに代は離れているようである(『浦上家系図』では備後守は宗景の孫とされるが、実際は同時代の人物である)。
鴨方藩の大目付などを勤める程の上級藩士であった傍ら、若年より学問、詩文、七絃琴などに親しむ。
多数の絵画に加えて、脱藩直後には漢詩集『玉堂琴士集』(寛政6年〈1794年〉)も著している。
藩士時代から、膨大な蔵書を有する「経誼館」も営んでいた岡山城下の豪商河本家、大坂の豪商かつ文化人であった木村蒹葭堂と付き合いがあり、そこに出入りする文人墨客とも交流があったとみられる。
50歳の時に武士を捨て、2人の子供(春琴と秋琴)を連れて脱藩(妻はその2年前に亡くなっていた)。
友人の岡山藩士であった斎藤一興は『 ……

浦上玉堂が亡くなってから、204年と52日が経過しました。(74563日)

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