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頼三樹三郎(らいみきさぶろう)

儒学者[日本]

(安政6年10月7日没)

1859年 11月1日 死去斬首享年35歳

頼三樹三郎 - ウィキペディアより引用

頼 三樹三郎(らい みきさぶろう、1825年7月11日(文政8年5月26日) - 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。
諱は醇。
通称は三木八。
号は鴨崖。
頼山陽の三男。
生涯= 1825年、儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生した。
母は近江商人の疋田藤右衛門の四女の梨影(りえ)。
父の山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者の後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。
1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の墓所である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。
この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。
その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。
1847年(弘化4年)に米沢藩を訪問、山鹿流古学・聖学者と交流した。
米沢では父・頼山陽の「川中島(不識庵機山を撃つの図に題す)」に倣い、『滿山の白雪、千巖を沒し。
絶險、穿ち過ぐ、嶺十三。
幾日の愁懷、今日散ず。
 氷山、中斷して、海は藍の如し。
』と詩「米澤雪中、大里峠を越ゆ」を吟じている。
1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。
しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
1851年(嘉永3年)、再び米沢を訪れ興譲館で坂積翠、浅間南溝らと交り ……

頼三樹三郎が亡くなってから、165年と20日が経過しました。(60286日)