橋本左内(はしもとさない)
福井藩士、幕末の活動家[日本]
(安政6年10月7日没)
1859年 11月1日 死去斬首享年26歳
橋本 左内(はしもと さない)は、日本の武士(福井藩士)、志士、思想家。
号は景岳、黎園(れいえん)。
諱は綱紀(つなのり)。
著書に15歳の時に志を記した『啓発録』(1848年)がある。
安政の大獄で25歳で死罪となった。
生涯=
1834年4月19日(天保5年3月11日)、福井藩奥外科医で25石5人扶持の橋本長綱の長男として越前国常磐町に生まれる。
母は小林静境の娘。
弟にのち陸軍軍医総監・子爵となった橋本綱常がいる。
桃井氏一族の桃井直常の後胤と称した。
直常の子孫が母姓を冒して橋本姓に改姓したという。
嘉永2年(1849年)、大坂に出て適塾で蘭方医の緒方洪庵に師事する(適塾時代に、福沢諭吉が左内を尾行したという話があるが、左内と福沢諭吉は同時期に適塾に在籍しておらず、フィクションである)。
嘉永5年(1852年)19歳の春に父・長綱が病気のため大坂での勉強を打ち切って帰藩し、代診に従事して患者の治療に励んだ。
11月に父が病死すると、藩医(表医師外科)の列に加えられた。
安政元年(1854年)には江戸に遊学し、蘭学者坪井信良の塾に入り、間もなく坪井の紹介で杉田成卿に師事し、蘭方医学を学ぶ。
その後、水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷吉之助、小浜藩の梅田雲浜、熊本藩の横井小楠らと交流する。
窮迫した時勢に接するうちに、医学を離れたい心をおこした左内は、中根雪江、鈴木主税の尽力によって安政2年(1855年)に藩医職を解かれ、御書院番 ……
橋本左内が亡くなってから、165年と20日が経過しました。(60286日)