川路聖謨(かわじとしあきら)
幕臣[日本]
(慶応4年3月15日没)
1868年 4月7日 死去拳銃自殺享年68歳
川路 聖謨(かわじ としあきら)は、日本の武士(旗本)。
号は敬斎。
豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大坂町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。
和歌にも造詣が深く、『島根乃言能葉』などの歌集も遺している。
生涯=
享和元年(1801年)4月25日、豊後国日田(現・大分県日田市)に、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。
幼名は弥吉。
母は、日田代官所手付の高橋誠種の娘。
弟に井上清直、母方の従弟に江戸幕府最後の西国郡代である窪田鎮勝がいる。
根津勢吉、永峰弥吉もいとこにあたる。
文化5年(1808年)、父・吉兵衛は江戸に出て御家人株を入手し、幕府徒歩組に編入された。
文化9年(1812年)、弥吉は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となる。
翌年元服して、弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。
文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に及第。
文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に採用され、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となる。
その後、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向。
この時仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格した。
その後、佐渡奉行を経て、老中・水野忠邦時代の小普請奉行、普請奉行として改革に参与した(このころ、名を萬福から聖謨に改む)。
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川路聖謨が亡くなってから、156年と227日が経過しました。(57206日)