横井小楠(よこいしょうなん)
熊本藩士、参与、儒学者[日本]
(明治2年1月5日没)
1869年 2月15日 死去暗殺享年61歳
横井 小楠(よこい しょうなん)は、日本の武士(熊本藩士)、儒学者。
横井 時存(よこい ときひろ/ときあり)とも呼ばれる。
本姓は平氏で、北条時行の子孫を称していた。
諱は時存(ときひろ/ときあり)であり、朝臣としての正式な名のりは平 時存(たいら の ときひろ/ときあり)。
通称は平四郎で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。
「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。
他の号に畏斎(いさい)、沼山(しょうざん)がある。
字は子操。
熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。
その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。
明治維新後に新政府に参与として出仕するが暗殺された。
生涯=
誕生・就学=
文化6年(1809年)8月13日、肥後国(現在の熊本県)熊本城下の内坪井町に、家禄150石の熊本藩士・横井時直の次男として生まれる。
文化13年(1816年)、8歳で藩校・時習館に入校。
天保4年(1833年)に居寮生となったのち、天保7年(1836年)の講堂世話役を経て、天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)となる。
下津久馬(休也)とともに居寮新制度を建議、採用されるものの実施過程において頓挫する。
このとき、家老の長岡是容の後ろ盾を得る。
天保10年(1839年)、藩命により江戸に遊学、林檉宇の門下生となり、佐藤一誠 ……
横井小楠が亡くなってから、155年と240日が経過しました。(56854日)