菅井一郎(すがいいちろう)
俳優、映画監督[日本]
1973年 8月11日 死去心不全享年67歳
菅井 一郎(すがい いちろう、1907年7月25日 - 1973年8月11日)は、日本の俳優、映画監督。
サイレント期から戦後にかけて300本を超える映画に出演し、名脇役として活躍。
溝口健二、新藤兼人、吉村公三郎らの作品に多く出演している。
戦中に俳優集団・第一協団を結成しており、戦後には2本の監督作を発表している。
来歴・人物=
1907年(明治40年)7月25日(木曜日)、京都府京都市六波羅に生まれる。
7歳の時に父と死別し、父方の叔母のもとで育った。
子供の頃から活動写真の大ファンで、小学校5年の時に尾上松之助を訪問したこともあった。
旧制京都中学校を中退後、鈴木伝明の書生を経て、1925年(大正14年)に日活大将軍撮影所に入社。
同年『貧者の勝利』に中国人ギャングの子分役で出演して映画デビューした。
舞台歴もなかったため、映画館に通い、コンラート・ファイトなどヨーロッパの映画俳優の演技を勉強しながら、村田実監督『街の手品師』や内田吐夢監督『競争三日間』などに端役で出演。
そののち徴兵で2年間兵役につき、除隊後日活太秦撮影所に復帰。
1931年(昭和6年)、内田監督『ジャン・バルジャン』にジャベール警部役で出演、筈見恒夫から「水際立った好演」と評され、出世作とした。
1932年(昭和7年)、入江ぷろだくしょんの創立に参加し、同社第1作の『満蒙建国の黎明』で入江を助演。
続いて溝口健二監督の『瀧の白糸』で高利貸しを演じて認められた。< ……
菅井一郎が亡くなってから、51年と102日が経過しました。(18730日)