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江木鰐水(えぎがくすい)

儒学者[日本]

1811年 10月8日 死去享年71歳

江木 鰐水(えぎ がくすい、1811年1月16日(文化7年12月22日) - 1881年(明治14年)10月8日)は、江戸時代後期から明治期の備後福山藩(現広島県)の儒学者、洋学者、開港論者。
生涯[編集] 藩校誠之館教授・医者・備後福山藩儒官。
名は□(ゆき)字は晋戈(しんか)。
通称は繁太郎。
号は健斎・三鹿斎。
文化7年12月22日(1811年1月16日)安芸国豊田郡戸野村(現広島県東広島市河内町戸野)の庄屋福原与曽八(藤右衛門貞章)の三男として生まれる。
文化12年(1815年)6歳のとき父を亡くす。
福山藩医・五十川菽斎(いかがわしゅくさい)および篠崎小竹に師事。
福山藩医・江木玄朴の家を継ぎ江木を名乗るも、医術を好まず。
文政8年(1825年)ころ儒医・野坂完山に師事。
天保元年(1830年)京都に出て頼山陽に師事し儒学を学ぶ。
山陽没後、天保4年(1833年)大坂で篠崎小竹に師事し儒学を修める。
天保6年(1835年)江戸で古賀侗庵(こがとうあん)に師事。
また清水赤城に長沼流兵法を学ぶ。
天保8年(1837年)福山藩主・阿部正弘に抜擢され藩校の講書となり、のち天保12年(1841年)福山藩儒官となる。
弘化2年(1845年)阿部正弘が老中になると、政治顧問となる。
安政2年(1855年)福山誠之館が創られ兵学を講義。
この頃より長沼流は時勢に合わぬとの考えから、訳書からの独学による西洋兵学を講義し、兵制の改革を建白した。
安政4年(1857年)阿部正弘の没後は、阿部正教・阿部正方 ……

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江木鰐水が亡くなってから、212年と292日が経過しました。(77725日)

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