芸能人・経営者のおくやみ情報

八田知家(はったともいえ)

武将[日本]

(建保6年3月3日没)

(ユリウス暦) 1218年 3月30日 死去享年77歳

八田知家 - ウィキペディアより引用

八田 知家(はった ともいえ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武士。
鎌倉幕府有力御家人。
鎌倉幕府の十三人の合議制の一員。
小田氏の始祖であり小田城の築城者。
生涯= 出自・前半生= 下野国の武士で宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の子。
姉妹に源頼朝の乳母のひとりである寒河尼がいる。
『保元物語』には下野国の八田四郎が源義朝の郎党として保元の乱に参戦したことが見える。
後に常陸国新治郡八田(現・茨城県筑西市八田)を本拠とし、苗字の地とした。
治承・寿永の乱= 治承・寿永の乱が起こると頼朝に従い、治承4年(1180年)に下野茂木郡(現・栃木県茂木町)の地頭に任じられている。
寿永2年(1183年)、野木宮合戦で小山氏とともに志田義広を撃破し、義広に与した常陸の武士・下妻弘幹の没収領が与えられた。
続く平氏追討においては長男・朝重とともに源範頼軍にあったが、西国に下る以前に頼朝の推挙を得ないまま無断で右衛門尉に任官したため、同じく兵衛尉に任じられた小山朝政とともに「のろまな馬が道草を食うようなものだ」と頼朝の怒りを買っている。
文治元年(1185年)平氏滅亡後は鎌倉に戻り、勝長寿院落成供養に出席しているが、文治2年(1186年)に再度上洛して朝廷や九条兼実との交渉を担当。
同年、郎党の庄司太郎が大内夜行番を怠ったため検非違使に捕らえられる事件が起き、知家が実力で庄司太郎を奪還したため朝廷より訴えられ ……

推定関連画像