石川淳 氏(いしかわじゅん)
作家[日本]
1987年 12月29日 死去肺がんによる呼吸不全享年89歳
石川 淳(いしかわ じゅん、1899年(明治32年)3月7日 - 1987年(昭和62年)12月29日)は、日本の小説家・文芸評論家・翻訳家。
東京府浅草区生まれ。
無頼派、独自孤高の作家とも呼ばれ、エッセイでは夷斎と号し親しまれた。
本名:淳(きよし)。
日本芸術院会員。
祖父から論語の素読を受け、森鷗外に熱中して文学を志す。
東京外国語学校仏語科卒。
『普賢』(1936年)で芥川賞受賞。
『マルスの歌』(1938年)は反軍国調の廉で発禁処分を受けた。
寓意的作品が多く、戦後は『焼跡のイエス』(1946年)を書き、太宰治・坂口安吾とともに新戯作派・無頼派として人気を集めたが、次第に東洋的境地で健筆を振るった。
和漢洋にわたる博識を発揮し、評論・エッセイにも佳品を残した。
生涯=
生い立ち=
東京市浅草区浅草三好町(現在の東京都台東区蔵前)にて銀行家で東京市会議員、共同銀行取締役の斯波厚(1869年 - 1931年)[1]の次男として生まれる。
祖父は漢学者で昌平黌儒官の石川省斎で、省斎により6歳から論語の素読を学び、淡島寒月より発句の手ほどきを受ける。
父の厚は幕臣だった石川家から札差を営んでいた斯波家へ養子に入っていたが、次男の淳は石川家を継ぐため1914年(大正3年)7月、15歳の時に祖母はなの養子に入り家督相続人となった。
1905年(明治38年)、精華小学校に入学し、4年時に精華小学校の制度改制にともない旧制新堀小学校(現在の台東区立台東中学校)に編入し、1 ……
石川淳さんが亡くなってから、36年と328日が経ちました。(13477日)