小島政二郎 氏(こじままさじろう)
作家、俳人・燕子楼[日本]
1994年 3月24日 死去享年101歳
小島 政二郎(こじま まさじろう、1894年(明治27年)1月31日 - 1994年(平成6年)3月24日)は、日本の小説家、随筆家、俳人。
俳号は燕子楼。
来歴=
東京府東京市下谷区に生まれ育った。
生家は呉服商「柳河屋」。
京華中学を経て、慶應義塾大学部文学科在学中に、『三田文学』主幹で西洋美術史家の澤木四方吉から教えを受け、『三田文学』で作品を発表し始める。
1916年に先輩作家の文章について批評した『オオソグラフィ』は森鴎外から認められるなど、学生時代から慶應義塾関係者内において、その名は知れ渡る。
卒業後は鈴木三重吉が主宰していた児童雑誌『赤い鳥』の編纂に携わる。
1919年に慶應義塾大学部文学科講師となり、最終的には文学部教授へ昇格し、1931年まで勤め、また1920年には『三田文学』編集委員となった。
1922年に親交があった講釈師・五代目神田伯龍を題材とした短篇『一枚看板』で文壇に認められ、1927年の『緑の騎士』で大衆的人気を得る。
以後多くの大衆小説を書き『花咲く樹』『人妻椿』『新妻鏡』など人気作を次々執筆し、映画化もされ、そちらも人気を集めるなど、戦前から戦後にかけて一世を風靡した。
1934年には直木賞・芥川賞の選考委員となる。
朝鮮藝術賞審査員など文壇の中心人物として活躍。
戦中はその作風から不遇だったが国文学の造詣深く『わが古典鑑賞』『眼中の人』などを発表。
前者は批評家としての見識が、後者については大正文壇 ……
小島政二郎さんが亡くなってから、30年と242日が経ちました。(11200日)