榊原忠次(さかきばらただつぐ)
上野館林藩・播磨姫路藩 藩主[日本]
(寛文5年3月29日没)
1665年 5月14日 死去享年61歳
榊原 忠次(さかきばら ただつぐ)または大須賀 忠次(おおすか ただつぐ)は、江戸時代前期の譜代大名、大政参与。
はじめ大須賀家を継ぎ、後に榊原家を継いだ。
遠江横須賀藩主、上野館林藩主、陸奥白河藩主、播磨姫路藩主。
榊原家3代当主。
生涯=
大須賀忠政の長男で、徳川四天王・榊原康政の孫である。
母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許される。
大石宗兵衛を遠江国城飼郡池新田の名主に任じる判物(『松平忠次判物』慶長19年1月15日、個人蔵)。
「松平國千代」と署名され、花押が付されている
父の死により3歳で祖母の生家である大須賀家を相続し、遠江横須賀藩で6万石を領した。
家康の配慮により、安藤直次が後見人とされている。
その後、叔父に当たる榊原家当主榊原康勝に子がなく断絶しかかっていたところ、徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した家康の命により、忠次が10歳で榊原氏館林藩10万石を相続した。
一説には、忠次自身の希望で榊原家相続となったともされる。
これにより、大名大須賀氏は絶家となった。
大須賀氏の領地は榊原家に吸収されたりはせず、幕府に返上となった。
家臣団も解雇、家は絶家となったが、一部の家臣は3割加増の上で榊原氏の家臣に編入されている。
また、忠次の擁立に功があった榊原家の3人の家老は江戸幕府より「御付人」(御附家老に相当する)に任じられてそれぞれ1千石を与えられ、榊原家からの ……
榊原忠次が亡くなってから、359年と200日が経過しました。(131325日)