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榊原政岑(さかきばらまさみね)

播磨姫路藩主、榊原家第8代当主[日本]

(寛保3年2月19日没)

1743年 3月25日 死去享年31歳

榊原政岑 - ウィキペディアより引用

榊原 政岑(さかきはら まさみね)は、江戸時代中期の旗本、のち大名、播磨姫路藩主。
榊原家宗家8代当主。
生涯= 姫路藩歴代藩主居城姫路城 家督相続= 正徳3年(1713年)、旗本1000石の榊原勝治の次男として生まれる。
はじめ父の遺命により、榊原氏ゆかりの大須賀姓を称して大須賀高胤と名乗った。
しかし家督を継いでいた兄・勝久の死去を受け、享保16年(1731年)12月27日に兄の養子として家督を継ぎ、榊原勝岑と称した。
享保17年(1732年)8月23日、今度は本家の姫路藩主・榊原政祐の末期養子となって、8月29日の政祐の死去により、10月13日に宗家を継承することとなった。
遊女遊び= 政岑は将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視した行動を行った。
江戸城大手門の警備を担当した際に派手で奇抜な服装で現れたり、吉原で派手に遊興にふけった。
寛保元年(1741年)春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1千8百両(2千5百両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。
さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3千両を超えたといわれている。
これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買った。
吉宗は政岑に対し、寛保元年(1741年)10月に出府を命じ、老中松平乗邑により政岑の乱行の調査が行われた。
吉宗自身は改易の考えさえあったようであるが、重臣の尾崎富右衛門による幕閣への懸命な弁明により改易・絶家は免れた。
しか ……

榊原政岑が亡くなってから、281年と240日が経過しました。(102875日)