徳川宗春(とくがわむねはる)
尾張藩主[日本]
(明和元年10月8日没)
1764年 11月1日 死去享年69歳
徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。
梁川藩第4代当主(当時は通春。
御連枝である大窪(大久保)松平家当主)、のち名古屋藩第7代藩主(尾張徳川家第7代当主)。
名古屋藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍・徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、名古屋藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。
歴代藩主と同様、名古屋藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した(後述)。
改名前の諱は兄・徳川吉通の「通」の字を得て通春。
生涯=
出典:
出生=
元禄9年10月28日(1696年11月22日)、名古屋藩第3代藩主・徳川綱誠の二十男として名古屋で生まれ、萬五郎と名付けられる。
母は側室の梅津(宣揚院、遠州掛川横須賀浪人三浦太次兵衛嘉重の長女)。
元禄11年(1698年)に祖母の千代姫、翌元禄12年(1699年)に父の綱誠、元禄13年(1700年)に祖父の徳川光友が相次いで没した。
宝永5年(1708年)11月、兄で第4代藩主の吉通より偏諱を受け、諱を通春とする。
吉通は奥で夕餉を摂る際には宗春と共に食事をしたほど、末弟の宗春を可愛がった。
正徳2年(1712年)、兄・通顕(のちの徳川継友)、通温は江戸に下向し従四位下に叙任され、譜代衆となるが、宗春は名古屋に残されたままとなる。
宝永6年(1709年)3月、久留米藩主・有馬則維から、名古屋藩御連枝筆頭の高 ……
徳川宗春が亡くなってから、260年と18日が経過しました。(94983日)