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堀田正俊(ほったまさとし)

上野安中・下総古河 藩主、江戸幕府大老[日本]

(貞享元年8月28日没)

1684年 10月7日 死去斬死享年51歳

堀田 正俊(ほった まさとし)は、江戸時代前期から中期の大名。
江戸幕府の老中・大老。
上野安中藩主。
後に下総古河藩の初代藩主。
正俊系堀田家初代。
生涯[編集] 寛永11年(1634年)11月12日、第3代将軍・徳川家光政権下の老中・堀田正盛の三男として生まれる。
寛永12年(1635年)に義理の曾祖母に当たる春日局の養子となり、その縁から寛永18年(1641年)、家光の嫡男・竹千代(徳川家綱)の小姓に任じられて頭角を現した。
寛永20年(1643年)、家光の上意で春日局の孫に当たる稲葉正則の娘と婚約、春日局の遺領3000石を与えられている。
慶安4年(1651年)、家光の死去に際して父・正盛が殉死すると、遺領のうち下野新田1万石を分与され、守谷城1万3000石の大名となる。
同時に従五位下・備中守に叙位・任官する。
その後も4代将軍・家綱の時代に順調に昇進し、明暦2年(1656年)に稲葉正則の娘と結婚、正則の後見を受けて万治3年(1660年)には奏者番となり、上野安中藩2万石を与えられた。
同年に長兄の堀田正信が改易されたが、お咎めは無かった。
寛文10年(1670年)に若年寄となり、延宝7年(1679年)に老中に就任し、2万石の加増を受けた。
延宝8年(1680年)、家綱の死去にあたり、家綱政権時代に権勢をもった大老・酒井忠清と対立して家綱の異母弟である綱吉を推したという。
綱吉が5代将軍に就任すると大手門前の忠清邸を与えられ、天和元年(1681年)12月11日、忠清に代わ ……

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堀田正俊が亡くなってから、339年と290日が経過しました。(124110日)