祇園南海(ぎおんなんかい)
儒学者、漢詩人[日本]
(宝暦元年9月8日没)
1751年 10月26日 死去
祇園 南海(ぎおん なんかい、延宝4年(1676年)- 宝暦元年9月8日(1751年10月26日)、生年について延宝5年(1677年)の説あり)は、江戸時代中期の日本の儒学者、漢詩人、文人画家。
服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに日本文人画の祖とされる。
また、紀州藩に仕え、野呂介石、桑山玉洲とともに紀州三大南画家と呼ばれている。
名を与一郎、正卿、瑜とし、字は白玉、号は南海のほか、蓬莱、鉄冠道人、箕踞人、湘雲、信天翁、観雷亭など。
通称は余一と呼ばれた。
本姓が源であることから、中国風に修して源瑜、阮瑜と称した。
生涯=
延宝4年(1676年)頃、紀州藩医である祇園順庵の長男として江戸に生まれる。
元禄2年(1689年)、木下順庵に入門し主に程朱学を学ぶ。
また、はじめて順庵に会ったとき七言律詩を詠んで驚かし、18歳(一説には17歳)のときには一晩で五言律詩百篇を作るなど早くから詩才に優れ、19歳年上の新井白石は南海の詩を絶賛した。
同じ門弟の新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、榊原篁洲などとともに「木門十哲」のひとりに数えられ、同年の松浦霞沼とは「木門の二妙」と才能を讚えられた。
元禄10年(1697年)、父の死去により家督を継ぎ、紀州藩儒として200石の俸禄を与えられる。
ところが元禄13年(1700年)、不行跡・放蕩無頼を理由に知行を召し上げられ城下を追放されて、長原村(現在の和歌山県紀の川市貴志川町長原)に謫居を命じられる。
一説には筆禍と ……
祇園南海が亡くなってから、273年と25日が経過しました。(99738日)