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彭城百川(さかきひゃくせん)

画家俳人[日本]

(宝暦2年8月25日没)

1752年 10月2日 死去享年56歳

彭城百川 - ウィキペディアより引用

彭城 百川(さかき ひゃくせん、元禄10年10月28日(1697年12月11日) - 宝暦2年8月25日(1752年10月2日))は、江戸時代中期の南画家。
服部南郭、祇園南海、柳沢淇園とともに日本南画の祖であり、日本で初めて本格的な中国南宗画様式による山水画を描いた画家とされる。
画人として法橋に叙されている。
また俳人としても活躍した。
生涯= 尾張名古屋本町の薬種商・八仙堂に生まれる(婿養子の説あり)。
本姓は榊原、通称を土佐屋平八郎というが、自ら彭城を名乗った。
これは先祖が中国江蘇省彭城の出身であることに因んだという。
名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。
中国風に彭百川と称した。
俳諧= 俳諧では蕉門の各務支考に就き、名古屋や伊勢で活躍。
享保6年(1721年)『庵之節句集』に集められている。
俳号ははじめ松角、享保9年(1724年)以降は昇角とした。
画業= 24歳のときの既に画人として作品「幽居読書図」を画いているが、本格的にはじめたのは京都に出た31歳以降である。
一時狩野派にもついたようだが、博学であり漢文を解したことで、伝来した元 明の典籍・図譜より文人画・南画を独学で会得する。
また伊勢・大坂・金沢・岡山・高知・長崎・大和など旅を重ね画業を研鑽した。
特に紀州の祇園南海を訪ね、中国渡来の画譜『芥子園画伝』を贈られ、これによって多くを学んだとされる(『介石画話』)。
寺院の障壁画なども多く手掛け ……

彭城百川が亡くなってから、272年と48日が経過しました。(99396日)