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建部綾足(たけべあやたり)

俳人絵師[日本]

(安永3年3月18日没)

1774年 4月28日 死去享年56歳

建部綾足 - ウィキペディアより引用

建部 綾足(たけべ あやたり、1719年(享保4年) - 1774年4月28日(安永3年3月18日))は、江戸時代中期の俳人、小説家、国学者、絵師。
片歌を好み、その復興に努めた。
別号に、葛鼠・都因・凉袋・吸露庵・寒葉齋・孟喬・毛倫・建長江・建凌岱。
生涯[編集] 1719年(享保4年)、陸奥国弘前藩家老喜多村政方と玉江(大道寺友山の娘)との次男として、江戸に生まれ、弘前で育った。
幼名は金吾、元服名は久域(ひさむら)。
父方の祖母は山鹿素行の娘、母方の祖父は大道寺友山である。
また、建部氏は吉良義央の遠縁にあたる。
1729年(享保14年)11歳、父政方没。
少年期の彼は文武に励み、槍術に優れたが、1738年(元文3年)20歳、兄久通嫁そねとの情事のため、弘前の家から追われた。
翌々年、彼女は死んだ。
出家して僧『円宗』となったが、9年後、還俗した。
俳諧を志し、各地を転々としながら、その道で名を成した。
師は、まず蕉門の志太野坡、ついで、伊勢派の彭城百川、和田希因、中森梅路らであった。
俳号は、はじめ葛鼠(かっそ)、のちに、都因・涼袋・涼帒などを用いた。
1742年(享保2年)から3年間、武蔵国埼玉郡小林村に滞在。
同地の文人墨客と交わる。
1747年(延享4年)29歳、江戸浅草に吸露庵を構え、俳号を都因から凉袋に改めて立机した。
1749年(寛延2年)門人らの援助を得て上方へおもむき、翌年長崎に寄寓して約半年、熊代熊斐と石崎元徳に、南蘋派 ……

推定関連画像

建部綾足が亡くなってから、250年と88日が経過しました。(91401日)