栗山利章(くりやまとしあきら)
福岡藩士[日本]
(通称・栗山大膳、承応元年3月2日没)
1652年 4月10日 死去享年62歳
栗山 利章(くりやま としあきら)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての福岡藩士。
一般には通称の栗山大膳(だいぜん)の名で知られている。
生涯=
天正19年(1591年)、黒田氏の家臣・栗山利安の子として豊前国の平田城で誕生。
福岡藩2代藩主・黒田忠之と対立し、江戸幕府に「忠之に謀反の疑いがある」と訴えた。
幕府による裁決の結果、「利章は乱心した」ということで利章を陸奥国盛岡藩預かりとし、黒田氏は改易を免れた。
この一連のお家騒動は黒田騒動(栗山大膳事件とも)と呼ばれた。
晩年は実質流罪ではあったが、150人扶持であり、盛岡藩南部家も手厚く待遇した。
盛岡在府中は、同様に対馬藩から盛岡藩預かりとなった規伯玄方(方長老)とも親交があり、共に盛岡城下の文化振興に寄与した。
承応元年(1652年)、同地で死去。
墓所は盛岡城下(現・岩手県盛岡市) の曹洞宗恩流寺にあり、無方規伯による忠節を讃えた碑がある。
なお、嫡男の利周(としちか)は、黒田家からの招聘を受けたがそれを断り子孫および臣下はそのまま盛岡藩に定着したという。
三男の利政は母の姓である内山を名乗り、200石取りの盛岡藩士となった。
盛岡藩主南部重信からの新田開発についての栗山雖矢宛書状などが、もりおか歴史文化館に所蔵されている。
備考=
大膳が盛岡へお預けとなったため、栗山家に伝来した黒田如水所用の「白檀塗合子形兜」は、現在はもりおか歴 ……
栗山利章が亡くなってから、372年と201日が経過しました。(136074日)