榊原政敬(さかきばらまさたか)
越後高田藩主、藩知事、子爵[日本]
1927年 3月7日 死去享年83歳
榊原 政敬(さかきばら まさたか)は、江戸時代末期の大名、明治から昭和期の日本の華族。
位階・爵位は正四位・子爵。
榊原家の14代当主で、越後国高田藩の第6代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事を務めた。
廃藩置県後も大正14年の隠居まで華族榊原家の戸主であり続けた。
略歴=
榊原政礼(高勝院・伊織・第3代藩主・榊原政令の3男)の長男。
弘化2年(1845年)2月4日生まれともされる。
文久元年(1861年)、先代藩主だった叔父・榊原政愛が死去し家督を継ぐ。
慶応2年(1866年)の第二次長州征討では、彦根藩と共に芸州口の先鋒を命じられる。
しかし、旧式の軍装だったこともあり、近代装備を備えた長州藩兵に敗れ、開幕以来の徳川家先鋒の面目を失った。
鳥羽伏見の戦い直後の頃は、高田藩は譜代大名の立場もあって、政府に対して徳川家改易を免除するよう嘆願しつつ、徳川慶喜に対して政府に謝罪すべきことを諫言するという「哀訴諫諍」の立場を取っていたが、佐幕派の旧幕臣古屋佐久左衛門の隊が高田藩の領内を通過して官軍の尾張藩軍や松代藩軍に攻撃をしかけた事件が起き、高田藩は尾張藩や松代藩から糾弾された。
高田藩が古屋隊を強襲したので高田藩の責任は不問となったものの、疑念を晴らすため尊皇の姿勢を示す必要に迫られ、官軍の先鋒として戊辰戦争に参戦、長岡藩や会津藩の征圧に参戦して大いに戦功をあげた。
その戦功により、明治2年(1869年)6月2日 ……
榊原政敬が亡くなってから、97年と260日が経過しました。(35689日)