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吉良上野介(きらこうずけのすけ)

江戸幕府奥高家[日本]

(諱・義央、赤穂浪士に討ち取られる、元禄15年12月15日没)

1703年 1月31日 死去討死享年63歳

吉良上野介 - ウィキペディアより引用

吉良 義央(きら よしひさ、寛永18年9月2日〈1641年10月6日〉- 元禄15年12月15日〈1703年1月31日〉)は江戸時代前期から中期の高家旗本(高家肝煎)吉良家当主。
幼名は三郎、通称は左近。
従四位上・左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。
吉良 上野介と表現する場合が多い。
本姓は源義央(みなもと の よしひさ)。
吉良義冬の長男。
父の跡をついで4200石の高家となり、後に高家肝煎に列し、官位は従四位上左近衛少将まで登ったが、1701年3月14日に指南していた勅使饗応役の播磨赤穂藩主浅野長矩(内匠頭)から遺恨ありとして江戸城内で殿中刃傷を受け、浅野は改易・切腹となるも吉良は咎めのないまま隠居した。
この両者に対する処分について不満をもった浅野長矩遺臣の大石良雄(内蔵助)以下赤穂浪士は1702年12月14日に江戸本所松坂町にあった吉良邸に討ち入り、義央の首級をあげて泉岳寺の浅野長矩の墓前に供え、その後お預かりとなった各藩江戸屋敷で切腹した。
養子の義周が継いでいた吉良家4200石は改易となった。
この赤穂事件を題材とした演劇群「忠臣蔵」では悪人として描かれ、著名な人物となった。
生涯= 所領= 領地は三河国幡豆郡吉良庄、岡山、横須賀、乙川、饔場、小山田、鳥羽、宮夾の八箇村の3200石、上野国緑野郡の白石村、碓氷郡の人見村、中谷村の三箇村の1000石、計4200石。
出自= 本姓は源氏。
清和源氏足利家支流。
鎌倉時代に足利家から足利宗家継承権を ……

吉良上野介が亡くなってから、322年と351日が経過しました。(117962日)

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